故越智昇会長
「高い技術と高品質の製品づくり」が基本理念。充実した研究開発体制と豊かな人材、新分野開拓へのパイオニア・スピリットを武器とし、激動の時代にあっても順調な事業展開を進めてきた。起源は、1945年(昭和20年)7月、松山大空襲により焦土と化した道後の鉄工所跡に放置されていた一台の旋盤から始まる。
越智昇会長は1925年(大正14年)2月9日、旧越智郡大西町の農家に、三男三女の二男として生まれた。尋常小学校から尋常中学へ進学し、卒業後の14歳からは東大阪市の旋盤工の工場で約2年間、丁稚奉公をした。
1923年〜1924年(大正12年〜13年)ごろは戦争が激しく、軍の統制下のもと産業といえば軍需関連が主だった時代。当時は大阪で仕事を覚え東京で稼ぐ、といった考えが主流で、親戚を頼りに大阪に出て厳しい親方の許で修行し、心身ともに鍛えられた。何が何でも、自分も親方になって鉄工所をやってみせると、心に決めた。
その後、1940年(昭和15年)4月から3年間、東京の日立航空工業の製図課に勤務して零式戦闘機の製作を。1943年(昭和18年)4月からは同じく東京の中島重工業設計課で、終戦の前年にあたる1944年(昭和19年)2月まで戦闘機の部品製作に携わる。
20歳の時には満州に出兵。大砲や機関銃など機械いじりが好きだった。
戦争勃発をはじめとする世の動乱に翻弄されながらも、目標を見失わず、技術の習得に励んだ。
終戦後、今治に帰郷した越智昇会長は、所用で出かけた松山道後で、空襲被害を受けた鉄工所跡に、数々の機械とともに焼け出されて、壊れて野ざらしにされた数台の旋盤を目にした。当時、一般の鉄工所の職人の多くは工作機械の使用は出来ても、修理する技術を持ってなかった。大阪での修行時代に修理技術を身につけていたため、機械の修繕を条件に、その代価として一台の旋盤を譲り受け、1945年(昭和20年)10月に越智郡大西町脇に『越智農業土木機械製作所』を創立。その代表者として土木機械の製作と土木の工事の従事するようになった。
運命的な機械との出会いだった。一台の旋盤を荷車に積み、道後から山越えで今治に運搬。現在の越智昇鉄工は、これがスタート地点だった。
戦後の日本は、食糧は言うに及ばず、戦争の供出により土木機械や農具など金属製品、農家が使う荷車も数少ない状況だった。創業当初は木製の車輪を使用した地ゴロと呼ばれる荷車など、木製具を製造し農家に供給していた。
常に人が必要なものを考え、必要というものを作ってあげれば仕事はいくらでもある。その信念のもと生まれたのが『昇式樋門開閉装置』だ。それまで使われていた木製品の栓に代わり、画期的な装置として、現在も全国各地で活用されている。
1950年(昭和25年)2月には、商号を「越智昇鉄工所」に変更。今治市米屋町4丁目で土木・建設・鋼構造物工事業を営み始める。
依然として、土木機械や農具などの数は少なく、焼けた機械の修理などを進める中、1955年(昭和30年)3月には農林土木事業への貢献が認められ、農林省岡山農地事業所から推奨状を授与された。
続く1960年(昭和35年)10月には、今治市阿方に「越智昇鉄工株式会社」を設立。代表取締役に就任し土木・建築・鋼構造物工事に従事する。業務面では、日本電話公社(現NTT)のケーブル取り付け用具の製造・取付作業に携わっていた。
当時の越智組(現・四国通建)の越智伊平先生(元建設・運輸大臣)と一緒に、取付用具の設置で四国中の現場を回った。電気設備業の越智組さんとコンビが組めたのは、大阪時代から修業した技術レベルが認められたからだった。そうする中で1970年(昭和45年)には今治造船から丸亀工場建屋の第1期工事、1973年(昭和48年)には第2期工事も受注した。
大阪時代、徒弟制度の下「寺の駒吉」と呼ばれる厳しい親方に仕込まれながら色々なものを見聞きし、身に付けてきた越智会長。帰郷当時、大阪の職人と地方の職人との技術のレベル差は大きく、大阪で修行してきたという事で、地域の人が次々と機械の修繕等に訪れたという。
そうした中、最も困っていたのが農業土木分野で、いち早く樋門や溜池栓の開発に着手した。
特注に応えることのできる技術力、必要とされている物を見る目線。業績面でも大きな成長を見せている背景には、計画から構造計算・設計、そして責任施工と、一括したプランの提案がコストダウンに繫がっていることがあげられる。
1998年(平成10年)2月に会長職となった越智会長。社員全員が営業マン。地域にあった規模、地域にあったやり方が重要。会長も社長も、自分が納得しないものは造らないという職人気質を持って事業に取り組んでいる。お金で技術を売るのではなく、信頼で技術を提供しているのだという考えのもとさらなる飛躍を続けている。
年号 | 主な出来事 |
1925年 | 越智郡大西町の農家で出生 日本で初のネオンが開発・設置される |
1938年 | 東大阪の鉄工所に旋盤工見習い |
1940年 | 東京の日立航空工業(株)製図課勤務 |
1941年 | 第二次世界大戦が始まる |
1943年 | 東京の中島重工業(株)設計課勤務 |
1945年 | 越智農業土木機械製作所を創立(大西町脇) |
1950年 | 商号を越智昇鉄工所に変更(米屋町) |
1955年 | 農林省岡山農地事業所から推奨状授与 |
1960年 | 越智昇鉄工(株)設立(阿方工場) |
1964年 | 東京オリンピック開催 |
1969年 | 大西町鉄工団地に用地取得、第1工場建設 |
1982年 | 大西町に第2工場建設 |
1998年 | 越智昇鉄工の会長に |
2008年 | 大西工場の社屋・工場棟新設 |
2010年 | 越智昇鉄工(株) 設立50周年 越智昇鉄工(株) 創業65周年 |
越智昇二社長
「安定した生活で、充実した職場が社員のやる気につながる」という考えのもと、「社内の同僚には厳しく、顧客には感謝の気持を持って取り組むこと」を方針としている。会社の技術、実績、仕事が営業につながっている。社員全員が営業マン。経営も地域にあった規模、地域にあったやり方が大切。
業績の大きな成長を見せる背景には、計画から構造計算、設計、施工と一括した施工プランの提案がコストダウンにつながっている。また背伸びすることなく、大きい仕事も小さい仕事も顧客との窓口は社長自らが行い、社員への指示を的確にスピーディーに行うことが顧客満足や信頼を獲得する。
一方で「地域に密着し、社会貢献も果たしていきたい」という思いから、全国ロボット相撲大会で地元高校生をバックアップするなど、積極的な交流を深めている。将来の夢は「まわりの人が幸せになること」
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